豊後臼杵
祇 園 祭

大分県下三大祇園祭の一つが、「臼杵祇園祭」です。京都では「ぎおんさん」と呼びますが、臼杵の人々は親しみをこめて「ぎょんさま」と呼び、臼杵の夏は祇園祭から始まるのです。臼杵の祇園祭について少しですがご紹介します。
もっと詳しい事は、多くの著名な方がホームページを立ち上げてますので探してみて下さい。

祇園祭といえば八坂神社ですよね。まずは臼杵の八坂神社についてです。

臼杵の八坂神社について
臼杵の八坂神社は平成9年に鎮座900年を迎えました。

臼杵の祇園さまは奥州 盤前 鶴ヶ峰の本神社におまつりされていましたが、後三年の役(1086)の戦乱をさけて船ではるばる臼杵庄

洲崎 岩ヶ鼻に着岸(1097)し、神の木原(現在の原山という地区)に鎮座され臼杵の鎮守として尊崇されました。
それから、450年後

大友宗麟公のキリスト教帰依による社寺焼討ちの難を逃れて見星寺の岩窟へ隠し、その後、八戸、そして宮崎県の飫肥まで逃れて

いましたが、大友氏の没後、大田氏の命により臼杵城三の丸(現在八坂神社が鎮座している場所)に、社殿を御造営遷座いたしまし

た。後、稲葉氏の時代に手厚い庇護のもと三代信道公の時代には、神幸祭が始まり、四代知道公の時より山車(あとで説明します)

の曳立てが行われるようになりました。

祇園祭(ぎょんさま)について
寛永20年(1643)に御神幸(御神体が祭礼の時に本宮から他所へ移られること)が行われて依頼、臼杵最大の祭りとして現在にいた

っております。

御神幸の先頭は御槍(鳥毛槍)振りです。槍は50本あり、関が原の戦いの直前に行われた、郡上合戦における戦利品で、四代藩主

稲葉信道公より拝領したものです。しかし、現在振っている槍は当時の物ではなく、新しく作った物で重さは約2Kgあります。

臼杵の御槍振りは絶対見たほうがいいですよ。理由はのちほど。

臼杵の御槍振りは槍を片手であやつり歩く独特の動きは、他の地域では途絶えてしまった江戸時代以前の

日本人の歩き方(ナンバ歩き)が忠実に再現されっており、日本国内でも非常に貴重なものとして注目されています。

奈良県の水分
(みくまり)神社のお祭りに同

じような歩き方が残っています。ナンバ歩きを用いたお祭りは現在日本に2箇所しか存在しておりません。

     
             昔の御槍振り                             現在の御槍振り

他にも三基の神輿が御神幸に参加します。神輿の掛け声や振り方、山車の囃子など江戸時代より伝わるものが数多く残されており、

他の祭りでは観る事の出来なくなった大変貴重な御神幸であるといわれています。

祇園祭では八坂神社の主祭神である三体の御神体が祭られています。

第一神輿(須佐之男命)、第二神輿(大国主命)、第三神輿(櫛稲田姫命)の三基の神輿に分かれて御神幸します。

掛け声に関しては、渡御(とぎょ:元宮から出発し他所へ行く事)の時は神輿の片方が「ヨウサヤ」と突き上げると、

もう片方が「チョウサヤ」と突き返します。還御(かんぎょ:他所から元宮へ帰る事)の時は掛け声は「ヨウネンナ」と「チョウネンナ」に

変わります。これらの語源については、狂言の中で「チョウサヤー・ヨウサ」を物を引く時の掛け声として用いる事があることから、

中世にはすでに使われていた共通語的な掛け声であったことが想像できます。

また、還御で神輿を揺さぶる時は、「アーナ・ナーゴリ・オーシヤナー」との宰領の号令で始められます。

ミョーネンナ・チョウネンナ・アーナ・ナーゴリ・オーシヤナーは、漢字で書くと「明年な、長年な、ああ名残惜しやな」となり、

意味は「今年の夏祭りも今日で終わり。後一年も明年(来年)まである。長い年月を待たなければならない。ああ名残惜しいことだ」と

いう意味を持つもの
で、これが語源にもなっているそうです。しばしの別れを惜しむ気持ちを表したものです。 

                                                       

山車の歴史について
臼杵の市街地は八つの町から形成されています。現在もその形態はそのまま残されており、八つの町を合わせて

「町八町(まちはっちょう)」と呼ばれています。その八町より毎年二町が当番制で山車を出し、囃子を奏でながら祭礼に

参加しています。四年に一度当番がまわってきます。・・・昭和からの山車の説明は後ろのほうに書いています。

元禄10年(1697) 祭礼に練物が始まります。各町より歌舞伎などを行う舞台として山車を作り、その山車を曳出したのが始まりです。

御神幸についていく為、移動可能な舞台が必要となり、山車を製作したと考えられます。

この練物挙行について藩より町方に、米の搬出があったことは藩も祭りの賑わいを望んでいたと思われます。

練物とは祭礼の曳物の一つで車上に山、人物、草木、禽獣などを飾り立て、そろそろ練って行ったことから山練物とも

伝えられています。

正徳3年(1713) 祇園祭典の節に山車を出し、踊りをすることに定まりました。

この様にして現在も続いている二町当番制はこの時期から始まり、また、踊りが披露されたことから「踊山」とも言われるように

なったことが伺えます。なお祭典の古絵図には山車の後部に鯨幕を張った楽屋が取り付けられていますが、

何時ごろ舞台に囃樂人が出るようになったかは不明です。

寛保2年(1742) 祭礼順番の踊り役は、木綿浴衣綿服とし、絹物の着用が禁止となりました。

宝暦9年(1759) 十月節約布告など藩財政再建のために定めが出来、また祭礼の練物を豪華にし過ぎた為、両町の年寄り、

十人頭、諸用方、若手、世話人等が追込(籠居)に処されました。町方衆の華美にしすぎることを咎められた現在の山車に、

彫物や飾り物が少ない原因ではないかと考えられます。だが、臼杵の商人は、お祭りを盛んにするために江戸や上方の祭りの

文化を数多く取り入れています。臼杵のように大きな山車(幅4m 長さ8m)は珍しく、藩より様々な規制に反した臼杵商人の

抵抗と意地の表れではないでしょうか。

       
               御神幸                               纏を持って参加

各町の象徴である大纏は、名古屋以西では見受けられないくらい大きく立派なものです。お囃子にしても八町それぞれ異なった

囃子(各町少しづつ違います)で、町の特色を出した苦心のあとが伺えます。

祭りが終わった後行われるのが、「幕洗い」です。祭りで使用した道具を整理し、祭りの労をねぎらうことが「幕洗い」の起源だと

考えられます。現在でいう「打ち上げ」の相当します。その時に唄う「祝い唄」は、関西歌舞伎の口上と同じです。

      『 打ってくれ  ヨーイョイ  もひとつじゃあ  ヨーイョイ  祝うて  三献  ヨーイョイ  』

祭りに使われる言葉などは、関東や関西の文化が混合していますが、特に関西の影響が強いように思われます。

                                                           

昭和初期の山車曳きと当番町
私も町八町の中の一つ「本町」に生まれました。祇園祭の囃子が聞こえるとソワソワしてきます。特に当番町の年は仕事どころでは

ありません。6月1日から囃子の練習が始まり6月30日で終了です。本町は7月に入ったら基本的には囃子を打つことはありません。

しかし、祭りの本番までには祭りに使用する道具を作ったり、用具を整備したりする仕事があります。特に山車に乗る若衆が振る

「采(ざい)」作りは真剣に行います。現在の祇園祭は以前に比べ随分変化してきました。変えてはいけない伝統、

変えなければならない伝統、変わってしまった伝統、復活させなければならない伝統などあると思います。

祇園祭はイベントではなく臼杵に根付いたお祭りです。神事ということをよく理解した上で参加する必要があると思います。

何が必要で何が必要でないのか。現在の祇園祭を考える上で、昭和初期の臼杵祇園祭を見ていきましょう。

祇園祭当番町の準備は1年前から始まります。前年の山崩し(山車の解体)にあわせて山車の受け取りと修理箇所の引継ぎが

行われます。(現在は山崩しは行われません) また、受取った山車の材料を1年間保管しなければなりません。

土台、車輪の様な大物から長物・小物まで寺社仏閣の床下や大店にお願いし倉庫に保管して頂きます。

山車乗組員の衣装、曳方からそして子供にいたるまで揃いの浴衣の発注や町の諸道具の修理点検等など準備はたいへんです。


春の総会で宰領2名と臨時係り(乗組員)14から15名を指名し、各係りとも同町生まれの子息で乗組員は独身が原則であり、

転入者はよそ者ということで山車の乗組員などは到底不可能でした。囃子の練習は祭りの1ヶ月前から始まり町内の店々を準次回り

練習します。年寄りが太鼓・鐘の打ち方を手振りで教えて段々と上手くなっていきます。乗組員の浴衣は揃いの「ゆかた」に兵児帯、

白足袋、柾下駄、カンカン帽、扇子といういでたちで、曳立て中は帽子を屋根下のハンモックにいれていました。曳き方の衣装も

揃いの「ゆかた」で曳く時は浴衣の後ろ下を端折り、頭は和手の鉢巻き、麦藁帽、カンカン帽と様々で足元は草履履きが大多数でした。

昭和12年 畳屋町(町八町の一つの町)で日名子実三氏が纏一対を寄付されたのを機に、同氏デザインの法被を大人から子供に

至るまで区民全員が作り着用したのが好評で、次年の当番町からこれに類した法被を作り着用するようになりました。

祭典は旧暦の6月7日から9日間でしたが、戦後からは新暦7月17日より7日間となりました。

準備も整い愈々お祭りの始まりです。祭りの前々日、曳出しの日は早朝午前五時に半鐘の音で町民の眠りを覚まし、

町の中央に集まり着到の点呼を行い、山車材料の保管場所の神社・仏閣などより材料の搬出にかかります。(保管場所は

主に大橋寺、善法寺、善正寺や祇園馬場のお旅所。町内では久家枡屋、小手川代屋、鑰屋などの大家の倉庫を借用していました)

大物の材料はロープを掛け、棒で担いで広場まで出し大八車などで運搬し町内まで持ち帰り組立てます。

4年に1度の当番町のため、商店の旦那衆が“ああだ、こうだ、そこは間違いだ”と、にわか船頭ばかりが集まって、

いやはや大変な騒ぎのなか山車作りは進んでいきます。それでも午前10時頃までには完成します。

山車組立ての順序は、先ず大車輪4個を中央に1対づつ並べその前後に小車輪を並べます。大小それぞれ車輪にグリスを入れ

車軸を差し入れ、前後、横の土台を付けてクサビで止めます。


次に土台に束木(つかぎ)を横に7本づつ、前後に1本づつ計16本を立て、その束に貫(ぬき)を通します。

縦方向の束には桁(けた)を入れます(計2本)。その桁の上に横梁(よこはり)を9本置き、尚その横梁の側面に端桁(はしけた)を

入れクサビで止めます。床板下の梁(はり)に根太木(ねたぎ)を入れて床板を置いていきます。

次に柱4本づつ計8本を立てそれに欄干(らんかん)を付けます。(欄干は大4個、中2個、前後2個、前後側4個)

柱の上に梁(はり)と束(つか)を前後に妻梁(つまはり)と升瓶束(しょうびつづか)を立て、束の上に棟木(むなぎ)を、

両横には桁(けた)を置きます。次に垂木(たるき)34本を置き側面は鼻隠しを施し広小舞(ひろこまい)を取り付けます。

垂木の上には小舞を置き、最後に破風(はぶ)を棟木(むなぎ)、桁木に取付けて共有の山車の材料は総て使い終わります。


屋台が建つと次は各町持ちの材料で屋台に飾り付けが始まりますが、その前にもう一つ大切な作業が残っています。

現時点での屋台は柱のホゾが緩く屋台が傾いているため、この状態では走行する事が出来ません。その傾きを直すために用いられる

道具が文字綱です。この文字綱を張りながら、少しづつ屋台の傾きを直していきます。この作業は屋台にとって大変重要な作業です。

文字綱の張り方は、屋台内にある柱の角から角にロープを斜交するように張り、屋台の建ちを直しながら〆木で捻りつつ固定止めする

事により屋台の傾きが直り、走行が可能となるのです。


次に屋台の下の方、床下の四側面に千鳥幕(幅75cm 縦17m)を張り車輪を隠します。床板の上にはゴザを敷き太鼓台を固定し

、腰掛を置きます(これは物入れとしても利用します)。柱上部には各町名入りの水引幕(幅35cm

縦20m)を張り、屋台前部に町名入りの長提灯を下げます。屋台に帆布シートを張りその上に鯨幕(白35cm 今35cm 

幅の縞で、幅4m 縦8m)を張り、屋台前部の破風に額御幣を飾り付けます。額御幣が付いているほうが山車の前となります。

屋台後部には赤字に白抜き字の町旗(幅75cm 長さ4m 竿6m)を飾ります。屋台に太鼓、〆太鼓、鐘を取り付け、

土台に曳綱を結んで作業は終了となります。


八町それぞれの町は曳出しの当日、町の中央に纏を2本立てて祭りへの参加の準備をします。曳立てでは他町1本づつの纏と

自町2本の纏で計8本の纏が先頭に立ち、次に子供達が半鐘、ラッパ、ほら貝と賑わしく打ち鳴らし、その他の子供たちは山車を

招くがごとく采を振ります。曳方は浴衣にわらじ履きでバタバタと山車を引き立てて走る様は勇壮です。曳立て中に車輪から煙が

出ることもありますが水をかけて難を凌ぎました。

夜曳きでは山車が終点まで来ると、纏持ちは自町まで纏を持ち帰り、代わりに高張り提灯4個と弓張り提灯80個ほどを持参し、

他町各々20個を混ぜて100〜150個を屋台に飾りつけます。曳立て中は各町2本づつと自町2本で計14本の高張り提灯が先頭で

す。大人と子供が持つ数十個の提灯と、屋台に飾り付けられた提灯が揺れながら、その後を自町の高張り提灯2個が山車を守るがご

とく締めて進みました。屋台の中はローソクの熱で蒸し風呂状態であったそうです。追い駆け中にローソクが倒れて提灯が燃えると乗

組員は采でたたいて火を消しました。

祭りが終わると、屋台の取壊しが行われます。午前5時よりから組み立てと反対の作業で次の当番町の指示に従い、指定の場所に

収納します。来年の当番町へ屋台の破損箇所やその他の伝達事項を引き継ぎます。


現在の山車は以前より小さくなりましたが、走る勇姿は健在です。

昔の道路は現在のように舗装しておらずデコボコ状態でした。

以前の山車は現在の山車より大きかったため、山車の向きを変える為にはこね棒を用いて方向を変えてました。

山車の上で奏でられるお囃子の間に「ソーリャ」という掛け声がどの町でも入ります。

本来ならお囃子の間に決まった間隔で掛け声を入れる必要はありません。

では何故現在のような掛け声が入るのでしょう。

憶測ではありますが、この「ソーリャ」の掛け声の時に曳き手は山車の方向を変えていたのではないでしょうか。

つまり皆で力を合わせるときに用いる時にかける声と一緒ではないかと考えられます。

この「ソーリャ」の掛け声を合図にして力を合わせていたのでしょう。